茶トラバッパの後を追いかけたら、「いつまでもついてくるんじゃないよ。お前は立派になったのだから一人になっても生きていけるよ」と押し返す。

  それでも少しだけ前に進むと「帰りなさい、来てはいけないよ」と、
怖い顔をするけれど、でも、優しさが一杯で涙が光っている。

 鈴の音が聞こえる。少しずつ遠くに離れていくのに、鈴の音は少しずつ少しずつ近づいてくるように大きく聞こえる。

 お星様になった茶虎バッパ…………。

   年の瀬の寒い真夜中に茶虎バッパが死んだ。薄墨を流したような新月の夜空に、星影だけがまたたいて、ヒューっと吹き抜けた冷たい風が、茶虎バッパの魂を運んで行った。 

 12月に入ってから食欲を無くして、クリスマスのご馳走も余り食べたく無いと少し水を飲んだだけだったし、時々、しゃくるような息遣いをしていた。

  獣医さんが来たときだけは低いうなり声で威嚇して、絶対に体を
障らせまいと頑張って、薬なんか真っ平だと最後の頑固を通したのだ。         

  獣医さんは「麻酔をして治療しても難しいかも知れませんね。もう、かなりの年令のはずですよ」と思案にくれていた。      

「チャトラは最後までガンコなのね。このままじゃ死んでしまうのよ」 

 お嬢さんが優しく頭をなでると、少しさみしそうな目付きになるが、一寸でも獣医さんが触ろうとすると、根性出して唸ってた。

  獣医さんは腕組みをしながら、「無理に押え付ける方法もあるんですが、暖かくして様子を見ますか、少しでも食べてくれたら…………」と言い残して、薬を置いて帰って行った。

 茶トラバッパは、それから一日半もサイノ河原を行ったり来たりしていたが、ちょっと咳き込んだら容態は急変した。

  最後はけいれんして四肢を
突っ張って何か一言叫んでこと切れた。俺には「あちきは」と聞こえたけれど、後は声にならなかった。

 茶虎バッパは虫の息でも野良としてのポリシーを貫いたことに、俺は改めて心の底から尊敬した。

「今日はこのまま寝かしてあげようね」
手編みの膝掛を茶虎バッパに掛けながら、お嬢さんの目が光っていた。

  でも、俺は猫だから悲しくなんか無い振りをして、茶虎バッパからは絶対に離れないぞと決めていた。

 だんだん冷たくなって動かなくなった茶虎バッパを見ていると、俺の目からふいてもふいても涙があふれてくる。茶虎バッパが教えてくれた、いろんなことが洪水のように押し寄せて、頭の中で渦巻いていた・・・。

  俺はいつの間にか眠っていた。俺と茶虎バッパはクローバーの絨緞に寄り添って、ツユ草やレンゲやタンポポの花に埋まって目を閉じている。

 眠っているのに何でも見える。真っ暗闇から大きな星が光って辺りを照らしたと思ったら虹の橋が掛かった。  

 心地よい風が吹いて桜吹雪が小さな渦を巻くと、アゲハチョウ、モンシロチョウ、オニヤンマ、カネアキバ、蜜蜂、テントウムシ、カナブン、小さな虫たちが花びらと一緒になって乱舞する。その中からトラマルが抜け出して、茶虎バッパの鼻先でブーンブーン飛んでいる。  

 「うるさいね、あちきはまだ眠いのに・・」茶虎バッパが起き上がると、チョウチョの大群が折り重なってブーケを作る。それが一瞬に純白のウェディングドレスになって、アルがちょろちょろしながら先導して、チンとプーが気取って裾を持っている。                 

  俺が………、もう一人の俺が茶虎バッパの手を握り締めながら、虹の橋を渡り始める。俺たちは並んで歩く、茶虎バッパはとっても若返って毛並までピカピカして、何だか眩しいくらいきれいだ。

 茶虎バッパが天国に昇るんだ。

  遠くで騒ぎながら呼んでいるのは、胸から十字架のペンダントを下げて、あれはガ太郎の神父さんだ。小鳥が舞って、スイトピーやコスモスやナデシコの花を振り撒く。     

 橋を渡り切るところには、柴犬のハチ助がドーベルマンやバセットハウンドやブルテリヤを指揮して、お城の衛兵のように行進する。

  空一杯に花の雲が広がる。その花が辺り一面に降りそそぐ、赤、黄色、ピンク、白、エンジ、薔薇の花ビラが飛び散ってそよ風に舞い上がる。

  茶
虎バッパは「薔薇はとってもきれいだけど、刺が痛いから、近寄っちゃいけないよ」って言っていた。             

「痛いよう、痛いよう」目が覚めたら、俺は茶虎バッパの手を握り締めていた。俺の目の中には涙がいっぱい溜まっていた。

 翌日の昼過ぎ。

  背高のっぽのアメリカ人が来て、庭の角にある樫の木の下をスコップで深く掘った。淡いピンクの膝掛に包まれた、茶虎バッパを静かに降ろして、カスミ草と白いカーネーションの花束、大切にしていた子熊の縫いぐるみ、大好きだったドライフードも一緒だ。

  そして、聖書を読んで土を掛けた。

 「あちきはイングリッシュは苦手だよ」何て悪たれているような気がする。
 「チャトラは神様が迎えに来て、天国の猫の国に行ったのよ。

  物知りで
お話し好きだったから猫学校の先生になっているかも知れないわね」とお嬢さんは微笑みながら花束を置いた。

 俺は、茶虎バッパが俺のことをいつまでも忘れないように、盛られた土の上にいっぱいおしっこを掛けてやった。 

 お嬢さんは俺のことをちょっと困ったように睨んで、「チャトラ、私はこの人のお嫁さんになりますよ。アメリカに行ってしまうけれど、ツートンも連れて行きますよ。」と言って胸で手を合わせている。

  もしかすると………、もしかしなくても、俺はアメリカに行くんだ。               

 俺は思い出した。今年の夏の夜、庭のガス燈の明りが揺れてる中で、お嬢さんと背高のっぽのアメリカ人がキスをしているのを見ながら、茶虎バッパが「お前はきっとアメリカに行くよ。

 あちきは行けないから、アメリ
カに行って一人になっても根性お出しよ」って、俺にささやいたことがある。

 「お前は立派な日本猫なんだから、アメリカに行っても胸を張って、ほらっ教えたろ、よそ者が絡んできても、お前の得意のジロリにらみをしておやり、・・・」

 俺は、茶虎バッパの言い終わらない内に、頭をちょっと下げて、上目遣いにジロリと睨む振りをしてみせると、「そうだよ、それだよ」って、珍しくニャニヤニヤニャニャンと声を出して笑ってくれた。

 それを思い出したら、いっぺんに体中が熱くなって、また涙が………、