新しい出発(最終章)

 茶虎バッパが天国に逝ってから俺はボンヤリと日を過ごしていたが、今日は大晦日。お嬢さんの友達が遊びに来て年越しパーティが開かれている。女の人が四人と男の人は三人で、その内一人は一メートル九十センチもある背高のっぽのアメリカ人だ。

  お嬢さんはこのアメリカ人のお嫁さんになって………アメリカに行く。そう言えば、最近、この背高のっぽをちょくちょく見るようになった。

10、9、8、7、カウントダウンが始まって午前0時になると、「ハッピーニューイヤー」の歓声と同時に、クラッカーが弾けて、いろんな色の細い紙テープが部屋に舞った。俺はビックリして外に飛び出した。

  港に停泊して新年を迎える船が一斉に汽笛を鳴らしている。ボッボー、ポーッ、ピッピー、バオバオ、バッバーと音が入り乱れて、いつまでもいつまでも続くように聞こえる。ドラの音も聞こえる。大きな客船やぶこつい貨物船、先導船、レストラン船、遊漁船、動いている船も止まっている船も、全部の船がありったけの電気をつけるから、黒い海がきらめくように光っている。

  夜空に向かってサーチライトが乱舞して、遠くの空に花火が上がる。

 なぜか・・・涙が出てきて止まらない。違う汽笛が聞こえる度に涙があふれてくる。

 「もうバッパには会えなくなるの」って聞いたら、「あちきはどこにも行かないよ。ここに来ればいつだって会えるんだよ」って笑っていたから、俺は茶虎バッパの匂いが残る寝倉に入って、・・・いつの間にか眠っていた。

 夢を見るのは楽しい。夢を見れば、いつでも茶虎のバッパに会えるんだ。

「あちきの姿が見えなかったら目を閉じてご覧・・・、ほらっ、お前の側にいるだろう」って声が聞こえる。甘えて、ニャンニャと呼んだら「眠っているのにうるさいね」とぶっきらぼうに言うくせに、自分の寝床を少し開けて「寒いからこっちにお入り」と呼んでくれる。

  俺がのそのそと潜りこむと、茶虎バッパは俺の首筋を噛んで、それから、ペロペロして抱きしめてくれる。

「こんな冷えちゃって、何度言ったら分かるんだい。猫は暖かい部屋の中で丸くなるのが極楽ってもんさ」と、やっぱり口では小言ばかりだ。それでも、俺が得意の二ギニギをして見せると「体ばかり大きくなって、いつまでも子供だね」って笑うんだ。

茶トラのバッパが教えてくれた。

 「猫なんてものはアチキのようにガンコでもいけない。その点お前は甘え上手だけれど、人様に甘えすぎは禁物だよ。腹の減ったとき、お帰りなさいのとき、遊びたいとき、二つ三つ甘えるのが丁度良いいのさ」

 俺はいくつ甘えているか数えてみた。腹が減ったら、お嬢さんの足元に擦り寄って二ャーゴと鳴く、お嬢さんの帰ったときは石段まで出迎える。遊んでもらうときも、体をゴシゴシして抜け毛を取ってくれるときも気持ちよくてグルグル喉を鳴らしてしまう。本当はもっとあるけれど、甘ったれに見られるから言えないよ。

 茶虎バッパは鼻を鳴らすのを忘れていたけれど、最後にお嬢さんが頭を撫でたら目を細めてゴロゴロしていた。きっと、若いときに死に別れた赤ちゃんのところに行けるのがうれしかったんだ。

 こんなことも言っていた。「アチキは齢をとっているけれど、めっぽう歯が丈夫で内臓も丈夫、・・・」それから俺をジロリと見据えて「お前のように好物だからと言ってガツガツ食べていると長生きしないよ」と説教された。

  猫の一生は十四、五年、茶虎バッパのように長生きしてもせいぜい二十年くらいだろうが、それも本当は分からない。齢が増えたら貫禄が付くからと単純に喜んでいると、どうも、違っている。

俺たち猫の年令は、生れて一年で二十歳になって、それからは一年ごとに四才ずつ年を取る。俺たちは人間の何倍も早く大人に成るらしいが、年齢にしても性格にしても、人と猫を対比するなんて、何て馬鹿ばかしいことだろう。

  人でも猫でも一日は一日、一年は一年、月日が経つのに変わりのあるはずも無い。

俺の日々は平々凡々、一日が長いのか短いのか考えもしないが、いつの間にか過ぎていく、俺は猫だから、一生懸命、そのとき任せに猫らしく生きている。

それから、俺の知りたい大切なことも教えてくれた。          

 「猫が100匹いれば100の愛があって、それぞれの愛の表現には決まりが無いから、愛の形なんてものは数え切れないんだよ。自分の愛の形と違うからと言って他の愛に首をかしげると争いになる。何でも良いから小さな愛を感じてあげれば、それが幸せに繋がるんだよ」

 俺は、茶虎バッパと話していると何だかポカポカ暖かい大きな気持ちになれた。いつも叱られてばかりいたけれど、あれは愛なんだって、今、そんな気がした。 




全編はこちらから HOME