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思い出のなる木

 ここらで自分史を書いてみよう。私の人生には書ききれないことも数多くあるので、この話の主人公は私であって私ではない。

 これはノンフィクションでありフィクションでもある。過去がどうだからって反省しても始まらないし、いずれにしても、ぐねぐねと曲がった道を歩きながら、今日がある。

 書いたり消したり手直ししながら、「思い出のなる木」を育てていこうと思う。


アメリカ・ザリガニ

 小学4年生の夏までは、姫路の白鷺城の真正面に位置した市営の安田住宅に住んでいた。考えてみると一戸建ての2DKで風呂も付いて庭付きだからたいしたものだった。

 庭も広くてひょうたん形の池を掘ったら上手いぐわいにコンクリートの下地が出てきて、周りをセメンと丸石で囲ったら、池になった。

 10日間くらいはワラ束を水に入れてコンクリートのあく抜きをした。池の中には夜店の金魚すくいの金魚が泳いで、ナマズもいて、それに真っ赤なアメリカン・ザリガニが放されていた。

 ・・・・・お城を囲んだ内堀から外堀を繋ぐ井戸があって、台風などでお堀の水があふれると、井戸に繋がるトンネルを通って内堀から外堀に流れ出す仕組みになっている。・・・と思っていたが、外堀から内堀だったのか、外堀から川へ流れ出たのか、定かな記憶ではない。。

 いずれにしても大水が出ると、ふんどし姿の若い衆がロープを腰に巻いて井戸に飛び込む。

 井戸の中ほどには堀からあふれた水が鉄砲水のように噴出す口があって、そこに大きなざるをあてがうと鯉やフナ、ナマズと一緒に、一番多く流されてくるのが、このアメリカザリガニで、井戸の上の若い衆が、行列する人のバケツに、山盛りに放り込んでくれた。兄弟三人で並んでも一杯だけだったが、それでもバケツ一杯の川魚やザリガニには興奮したものだ。

 そんな訳で食べきれない魚やザリガニを池に放したのだが、このザリガニ、コンクリートの壁面に見事に穴を空けてくれる。穴が水面の上のほうなら問題は無いのだが、底に近いと池の水が土に吸われてしまうのだ。

 そんなこともあって、大きな真っ赤チンのアメリカザリガニは、頭と胴を外して、尻尾の部分の硬い甲羅をはがすとピンクのプリントした剥き身になる。バケツ一杯でどんぶり一杯の剥き身が取れて、これを湯がくと芝エビのようにクルンと丸くなる。キュウリと合わせて三杯酢をかけると、けっこう美味しい酢の物になった。


尻穴のヒル・・


 姫路のには播磨の山ろくから流れ出た市川という河川があって、所々に清水が湧き出る場所には石組みされた洗濯場があった。野菜やら衣類やらを持って近所の叔母さんが井戸端会議に集まっていた。

 夏になると子供たちの出番で、その湧き出る冷たい水に潜って、タニシなんかを拾ったものだが、いつもは、川の浅瀬で水遊びしていた。夏の夕暮れにはホタルが飛んで笹を振って捕らえたものだ。

 小学2年になって直ぐの夏、やっとパシャパシャと泳げ始めたボクは、橋のたもとのちょっと深みのある川藻の群生した場所に入り込んでいた。

 兄が「遠くに行くな・・・」と呼びかけたので、みんなは土手に上がった。

 「アッ、アッ、ケンちゃん、ヒルだ」とボクを誰かが指差した。

 川で泳ぐとヒルが吸い付くのはいつものことだが、ボクはヒルの群れのいる場所に入ったらしく、このときばかりはボクの体にヒルが点々と吸い付いていた。泣き出したボクを囲んで年長さんたちが一匹一匹はがして踏んづける。後の背中は兄が取ってくれた。

 不幸だったのは、ボクはフルチンだったので、チンチンやお尻にもヒルが付いていた。それで、なんだか尻穴がヌルリと感じるので、四つんばいになって尻を広げた。

 「アッ、アッ、ヒルが尻の穴に潜っていく、おなかの血がみんな吸われちゃう」と、兄がすっとんきょうな声をあげた。

 「やだやだ、取ってとって・・」と泣いて騒いだのを覚えている。

 何とか尻穴に潜りきらないヒルは取り除けたが「もしかしたら、ヒルが何匹か尻の穴に入ったかもしれない」と、兄はシャーロックホームズか明智小五郎のように腕組をしていた。

 誰かが無責任に「きばれ、気張れ、気張ってウンコ出せ」って言ったが、こんな時に泣きべそかきながら気張ってもウンコなんか出ないもんだ。
 
 ボクは実際に小さい頃は貧血気味で、小学校までは体の弱い子供だった。何かで熱が出たりするたびに、体の中にヒルがいるからと悩んでいた。


正月のドブロク


 姫路の住宅に住んでいる1950年頃、失業した父は奈良の天理教の本部に修行に行ってしまった。

 これがその後になって父と母が別居する原因になったのだが、父が家出同然にいなくなったのだから、それでなくても貧しいのに、母のアルバイト程度では最悪の状態であった。

 明日は年が明けて正月だという大晦日の夕方にになって、母から、母の弟の勲夫叔父さんの家に行って来いと言われた。叔父さんの家は八百屋さんをしていた。

 叔父さんの家に行けば美味しい物が食べられるし、きっとお年玉も貰えるからと、うれしさのほうが大きくてドキドキしながら大晦日を越えた。
 
 晴れ着もなくて普段着のままだったが、母が編んでくれたやけに長い毛糸のマフラーが正月を教えてくれた。飾りもないし、目も不ぞろいであったし、3本作るつもりが間に合わなくて2本だけだったが、それも毛糸を余すのがもったいないと言って長い長いマフラーになった。

 出かける間際に母はボクたちの首にマフラーを巻いた。兄は黒を独り占めして、弟とボクのは派手な朱色だった。2人で巻いてもまだ余裕があったけれど、弟はチョロチョロしてたからボク一人の首に巻いていた。それ以来、ボクは朱色がラッキーカラーのようで大好きになった。

 そして兄の宏に「けんじが歩かなくなったらマフラーを結んで引っ張ってやるのよ・・・」と、なぜか弟ではなくてボクが歩けなくなったらと言った。
 
 元旦の昼頃になって、小学3年の兄、1年のボク、そして保育園の弟の兄弟3人で、10km以上も離れた街外れまで出かけることになった。

 寒い木枯らしの中を道草したりしながら3時間も歩いたのだろうか、明るいうちに叔父さんの家に付いたが、引き戸がしまっていて小さなしめ縄がぶら下がっていた。端っこのほうにわずかな隙間があったので、兄が声をかけた。ガタガタと音がして、叔母さんが戸を開けてくれた。

 母から連絡されていたのだろう・・・「よく来たね、寒かったろう、さあ、早くお入り・・・」と手をとるように迎えてくれた。

 八百屋の店先は昨日までの忙しさから忘れられて、残り物の野菜がそのままにしてあった。居間に通ると、おばあちゃんがいた。ボクはおばあちゃんに可愛がられていたので一遍にうれしくなって「おばあちゃん」と言って、膝の上に座った。

 弟の稔は「へっちゃらだつたよ」なんて言いながら、やっぱりおばあちゃんの背中に抱きついていた。おばあちゃんはボクの坊主頭を撫でまわしながら「よく来た、よく来た」と言って、なぜかポロポロ涙を流していた。

 叔父さんは一杯機嫌でニコニコしていた。弟と同じ年の息子の健一とその妹がいたけれど、二人とも恥ずかしがって母親に隠れるようにしてボクたちを見ていた。

 直ぐに丸餅と鶏肉の入った熱々の雑煮が出された。野菜もたっぷり入っていた。ちゃぶ台の上を魚の煮付け、ナマコの酢の物、紅白のカマボコ、卵焼きもあった。いろんな食べ物が並べられて、何から手を出せば良いのか迷った。

 腹が一杯になると、叔父さんが台所の床板を外して、大きなカメに入ったドブロクを見せてくれた。ちょっとにごった白いドブロクが一斗ガメ7分目くらいまで入って、プックンプックンと泡が出て弾けていたように記憶している。

 いつか兄が言っていたが叔父さんはドブロク作って警察に連れて行かれたことがあるのだ。

 おばあちゃんや叔母さんが止めるのも聞かずに、兄に向かって「お前は長男だから一杯飲め」と、木の柄杓に入ったドブロクを差し出した。兄が困っていると「おお、そうかそうか・・・」と、湯のみ茶碗のほうが飲みやすいだろうと勝手に解釈して、湯のみ茶碗に注いで兄に渡した。兄は覚悟を決めてゴクリと一口飲んで、鼻の頭にしわを寄せた。

 ボクがビックリしていると、チビの弟が兄の茶碗を奪ってゴクリと飲んだ。もっとビックリしたことに、弟は「美味しい」と言って、また、ゴクリと飲んだ。それにつられてボクも茶碗に口をつけたけれど、ちょっと甘い味と苦いような味がした。

 幼い兄弟が3人ともドブロクを飲んだので、叔父さんは、ご褒美だといって100円ずつくれた。もちろん、お年玉は別にくれた。

 泊まっていけと言われたが、早くお年玉の中身を見たかったからだろうか、夕方になって帰ることにした。

 母への土産だと言って、みかんや野菜、魚や肉、するめや海苔なんかを山盛り貰って、最初は自転車に載せようとしたけれど、荷物が重くて無理であった。それでリヤカーを引っ張って帰ることになった。大きなリンゴ箱が2つとみかん箱が1つであった。

 叔父さんは酔っ払って送ってやると聞かなかったが、足元までふらついていたから、結局は兄弟3人で帰ることになった。暗い夜道を急いでも、家に着いたのは夜中になっていた。

 勲夫叔父さんはそれから肝臓を病んで10年も生きないで40歳代の半ばに亡くなった。入院しても酒が止められずに、医者もさじを投げて、最後はベットの中で一升瓶を抱いてげっそり痩せて酒飲みながら死んだ。大学生になっていた兄が医者に聞いて「最後のわがままだね」と一升瓶を差し入れたのだ。

 (父は2000年7月に88歳で亡くなったが、私は貧しくても黙々と働きつづけた父が好きだったが、この頃は父は家出していなくなったと思っていた。
 母が亡くなったのは昭和58年の12月(1977年)の役所仕舞いの日であった)


食用蛙のすき焼き


 小学3年生頃の思い出だが、お城の外堀(弟に聞くとあれは内堀だと言うが?)にハスが一面に広がって梅雨場になると仏様のピンクの花が咲いいた。

 ハスの花は秋になるとジョウロの口のようになった穴の中にハスの実ができる。竹ざおの届くところの実を引き寄せて食べると、ポリポリして美味かった。布袋草の下になっていたとげのある黒くて硬い菱形の実も美味かったが、あの実は子供のとき以来食べていない。あれはナンだったのだろう。

 ところで、このハスの花の咲く辺りには食用蛙がたくさんいて、牛蛙とも呼ばれるように夕方になると、モウモウとかボウボウとか一斉に鳴いてうるさいくらいであった。

 この食用蛙を釣るのだが、釣りざおは手製で、しなりの良い太い青竹の先に、竹と同じ長さのたこ糸を結んで、その先にイカリ針をつける。イカリ針には赤い布切れを垂らすように巻くと、これが食用蛙の釣りざおになった。

 夕方、日が沈むと、やおら近所の子供たちが食用蛙釣りに参じることになるが、道具は特製の釣りざおと蓋つきのバケツと懐中電灯であった。とりわけ遠くまで光の届く懐中電灯は貴重品であった。
 
 ハス池に近づくと、誰が言わなくてもみんな黙って偲び足のようになった。釣りざおは5人で2本、2番目の年長さんがハスの間にゆっくりと懐中電灯の光を照らす。全員がその光を追いかけていると、ピカッと金色の目ん球が光る。
 すると一番年上の、これは中学を出て工場に働いていた吉田さんで、よしよしと貫禄を見せて釣りざおを振りかざすのである。

 赤い布切れの巻かれたイカリ針が、蛙の目に向けて飛ばされるが、近すぎても遠すぎてもいけないから難しい。

 ちょうど50cmから1mくらい手前に落ちると、ピョコピョコ跳ねさせて蛙を誘う。最初はなかなかうまく行かないが、要領が分ってくると、その赤い布に蛙が飛びつき、見事にイカリ針にかかると、これは一人では竿が抑えられないほど暴れまくる。

 まあ、夕刻から2時間もやっていれば5,6匹は捕らえることができたので、参加した人数分だけ捕らえれば終了するが、ちょっとばかり大量に捕った日があって、翌日の日曜日の午後に吉田さんの家に集合した。

 「昼飯を喰わずに来い」と言われて、腹ペコで吉田さんの家に行くと、まな板に載せられた食用蛙はエーテルをかがして眠らせたらしいが、仰向けに白い腹を出して大の字になっている。

 小さな雨蛙のお尻に竹筒を指して腹を膨らませたことはあったが、こんなに大きな蛙の白い腹を見たのは初めてだった。

 吉田さんが切り出しナイフでスーッと喉元を横に切り裂いて、それから一気に腹にナイフを入れた。

 腸を取り除くと、ピクピク動く蛙の首の皮一枚残して、何とも器用にベリベリと全身の皮をはいだものだ。吉田さんは背骨の両脇の白っぽい肉と、太もものピンクの肉を、やっぱり器用に骨から外した。大きな皿にピンクの肉が盛り付けられる。

 それから、直ぐに蛙のすき焼きが始まると、おまけに着いてきた一番年下の弟が一番先に「美味い、美味い」と喰って、みんなからうらやましがられていた。それに比べて、度胸ナシの私は一口食べて気持ち悪くなってしまった。

 あれから50年、蛙のすき焼きは未だに食べたことが無い・・・・


リンゴ追分

 それまでも映画を見た記憶はあるが、夏場の行事で小学校の校庭で映す野外映画館であった。教育的なものばかりで、10円も払わされたが、大抵の子供たちは垣根を飛び越えてただ観していた。

 初めて映画館で映画を観たのは、父親が天理教の修行から帰ってきて、田舎の支部で布教活動に入った時で、小学2年生の頃だったと思う。その支部長の娘さんが、近くの街中の映画館の切符売りをしていたので、無料では入れたのだ。

 映画の題名は、美空ひばりの「リンゴ追分」で、記憶に残っているのは、摘み取ったリンゴを箱に入れて、夕暮れの野路を帰る荷馬車の後ろに座った美空ひばりがリンゴ追分を歌っている場面だけだ。

 今でもあの唄は耳に残っているほど強烈な印象であった。
 リンゴの花びらが風に散ったよな、月夜に、月夜に・・・・
 津軽娘は泣いたとさ、つらい別れに泣いたとさ・・・

 その同時から離れ離れに暮らすようになった母親のことが思い出されて、涙が出てきた。

 それから映画館で見たのは東京に出てから、小学5年生の頃で、当時流行りのOLだったしげ子叔母さんに連れられて、銀座日活で観た石原裕次郎の「太陽の季節」であった。

 帰りにハンバークか何かを食べさせてもらって、「どうだった」と聞かれたときに、キスシーンだけが思い浮かんで照れくさかったので「つまらなかった」と答えたら、コツンと拳固で叩かれた。

 このしげ子叔母さんには、もう一回拳固でポカリと叩かれたことがある。叔母さんとフィアンセに連れられて江ノ島に海水浴に行ったとき、叔母さんの元気の良いおっぱいがポロリと水着からはみ出していたのを見つけて「オッパイ出ている、オッパイ出ている」と教えてあげたときだ。

 「もっと小さな声で教えなさい」とポカリと叩かれた。痛くはないが大人のおっぱいを初めて見て、初めて大人の色気を感じた。思い出のオッパイ事件であった。

 このしげ子叔母さんは、間もなくフィアンセと結婚して、今では栃木の盆栽園の大奥様に納まっていらっしゃる。


あの土手越えて

 弟は、あの小高くなった土手がお城の外囲いで、その外を取り囲んでいるお堀が外堀だと言う。もしかすると、姫路のお城はお堀が三重になっていたのかも知れない。

 今は分らないが、姫路の野里小学校は、刑務所の高い塀沿いに歩いて、その直ぐ近くに木造2階建ての校舎がTの字に建っていた。市営住宅から歩いて40分くらいの場所である。

 天気の良い日が続くと、土手の道を横切って近道をする。市営住宅の外れから野原を横切って山道を登るのだが、山道と言っても土手は、せいぜい50mまでの高さで、人に踏みつけられて赤茶色の土はだが出て道になっていた。

 食パンのようにこんもりと盛り上がった部分と、その間に低くなった部分があって、なだらかだけれどでこぼこしていた。その一角にコの字に囲まれた養豚場があって、その側に最も低くて歩きやすい道ができていた。

 それが近道で、小学生の年長さんから順番に、ツチネズミのように連なって行進するのだ。土手を越えると弟が言う外堀に出る。この堀は深いところでもお尻が濡れるくらい浅くて、湧き水が流れて芹の群生していた。

 お堀の巾は20mくらいだろうか、板んぱや丸太、倒木などで不ぞろいの橋ができている。大人の人が利用することなど見たことがないから、きっと子供たちが造ったのだろう。

 この橋を渡ることは学校で禁止されていたが、”天気が良い日が続くと・・・”これがキーワードで、雨降りの後では湧き水が勢いよく噴出して、橋を流したり、橋の半分以上にまで水が上がっていた。

 どの道を通うかは、年長さんの3人が決めるのだが、子供が10人もいれば、中には2人くらい鈍臭いのもいるわけで、その不器用で鈍臭い代表がボクであつた。

 ボクはこの近道が大嫌いであった。
 カバンは兄が持ってくれたが、渡るのは一人ずつなのだ。ボクはいつだって慎重に渡っているのに、丸太がグラッと動けば必ず水の中に落ちてしまう。ちょっと濡れていても足を滑らせて水に落ちてしまう。足から上手に落ちればパンツを濡らす程度で済むのに、落ちたくないので頑張るから、いつだって水の中に向かってひっくり返ってしまう。

 それに芹の生えているところで落ちると、ヒルが待ってましたと吸い付いてくる。ヒルは苦手だった。

 校門で当番の先生が立っている。みんな一緒だとバレルので、ボクは一人だけ残されて着替えてから走っていくが、いつも先生につかまってしまう。

 見つからないように着替えているのに、水をポトポトたらした洋服を持ったままだから、見破られるも何も、「こらっ、ケンジ、お前は遠回りして来い」と叱られて、頭をコツンと叩かれる。痛くはないけれど、先生は何でも知っているし、どこかで見張っているのだと感心していた。

 兄に言わせるとみんなが校門で「おはようございます」って挨拶すると、体育の先生は「ヒィフーミーヨー・・・」と頭数を数えて、「ケンジは落ちたか・・・」と聞いたそうだ。みんなは首をすくめて「落ちた」と言って教室に向かって走ったそうだ。

 兄が5年生、ボクが3年になって弟が1年生で入学してからも、いつも決まって水に落ちるのはボクだった。

 給食

 脱脂粉乳、マクニン

生れは大陸


 終戦の前の年、1944年の夏、私は北京の街中で誕生した。街中と言っても戸籍しか分らないので、それが北京のどのあたりなのかは分からない。

 ちらちらと聞かされたところでは、父は軍属として馬や駱駝を扱って、生活もまあまあであったようだが、何分にも北京の思い出になるものは1才のときに風呂場で撮ったセピア色の写真が一枚あるだけなのだ。

 敗戦の次の年の年明けには引揚者になって、満州鉄道で波止場までたどり着いたようだ。そのときに私が高熱を発したため、母は機関車が止まるたびに線路沿いの凍った雪を口に含んで、それを口移しに飲ませたそうだ。感謝をしようにも思い出にも残っていない。

 しっかり物事がわかり始めた頃には、母は神戸に住んで、父と私たち兄弟は東京に住んでいた。離婚もしていないのに生活のためとか、勉強のためなどと言って、母とは別れ別れに住んでいたから、北京の思い出などをきちんと聞いたことが無かった。

 それが成人して、30歳になった頃、テレビの中でショッキングな事実を知った。

  「第一次引揚者孤児」がテレビの中で、わずかな身元の手がかりになる古いボロボロの手紙やお守り袋、古い写真なんかを握り締めて、中国語で、「お父さん、お母さん、お兄さん、おねえさん・・・・」と日本の親兄弟に呼びかけているのだ。

 みんな、みんな、私と同じ年代の人々が、わずかな手がかりを基に自分の肉親を捜しているのだ。

 私の頭の中は真っ白でボウ―としていたかも知れない。私の目からは涙があふれて止まらない。

 しばらくして母に聞いた。父はあまり多くを話したがらなかった。
 母は教えてくれた、「兄の宏に鍋ややかんを背負わせていたのよ。今考えても変だと思うけれど、金目のものは臨検で全部取り上げられたし、隠していただけでも怖かった。女性にはひどい目に会った人もいた。何にも持ち帰れなかったのよ」

 「そう言えばお前はお手伝いの中国人が立派に育てるから置いていけ、きっと可愛がるから置いていけ・・・って熱心に言ったけれど、体が弱かったから手放せ無かったのよ」

 私は黙って聞いていた。「私はお前には何にもしてあげられなかったけれど、1つだけ自慢できるのはお前を手放さなかったことだね」

 色々なことで母親には反感を抱いていたのに、この日から感謝に変わった。母親の愛情を30歳を過ぎてしっかり受け止めることができた。

戸籍謄本には
「中華民国北京市内一区猪市大街百十七号内九号で出産」と記されている。