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親父のおにぎり とんかつライス 35年目の同窓会

思い出のなる木3

 ここでは中学生頃の思い出を振り返ってみました。
 親父のおにぎり

 小さな頃は乗り物酔いがひどくて遠足なんかにも参加しなかったが、中学2年の秋に修学旅行に行った。ボクには初めての集団旅行で3泊4日、京都奈良の旅行であったが、1960年頃、今から40数年前は新幹線の突貫工事中であったから、東京から京都まで東海道線で、6,7時間もかかった。このため、列車内で昼食をするのだが、これは各自が弁当を持参した。

 母とは別居していたので、父がおにぎりを作ってくれた。
 そして、列車が富士山に差し掛かる手前でお弁当の時間になった。リックサックから新聞紙に包んだおにぎりを取り出した。何かのときに押してしまったのだろうか、ちょっと形が崩れて平べったくなっていた。

 新聞を開くと竹の皮から海苔を巻いたおにぎりがはみ出して、竹皮の紐をほどくと、大きな大きおにぎりらしき塊が一個だけ、平べったく押しつぶされて原型は無かった。

 一瞬「これは何だろう」と思った。あっ、でっかいおにぎりだ、おにぎりがつぶれていると分って、とっさに恥ずかしさがあって新聞紙をかぶせて隠したが、隣りの相川君が目ざとく見ていて「なに・・・」と聞いた。

 ボクは「おにぎりだと平静をよそおった。「親父が握ってくれたんだ」と、覚悟してもう一度竹の皮を開いてみた。ボクよりも相川君のほうがビックリしていた。

 親父が朝早くに起きて、「列車で食う弁当はおにぎりが美味いぞ」と言って、さらに「どんなおにぎりが良いか」と聞いたから、ボクは「大きいおにぎりが良い」と答えたら、父は「よし、特大の美味い奴をつくってやる」と妙に張り切っていた。

 握っているところは見ていなかったが、まさか大きいのを1個だけ握るとは思わなかった。どんぶり2杯ものご飯をよいしょよいしょと握って、梅干も3個入れて、贅沢なことに四角の原型のままの海苔が3枚も使われていたが、どうやら焼くのを忘れたらしく、しっかりと絡み付いていた。

 車内アナウンスで「右手に富士山が見える」と教えて、やがて列車は安倍川の鉄橋を通過して、富士山の全景が浮かんだ。親父の握ったおにぎりは、もつと大きくて立派だった。

 平べったくなったおにぎりを喰うと親父の味がした。たくわんも美味かった。相川君のくれた卵焼きとウインナ−ソーセージも美味かった。ちょっと恥ずかしかったけれど、今でもしっかり覚えていられる。
 とんかつライス

 ボクが小学6年生の正月を過ぎた頃、春には中学生になるので、父に連れられて中学用の制帽を買いに新宿の伊勢丹に行った。

 真新しい黒の帽子を買ったが、まだまだ大きくなるからと頭よりも2周りも大きなブカブカの帽子であった。周りに折りたたんだ新聞紙を詰めて調整するのだが、その帽子は中学を卒業するまで新聞紙が必要であった。

 帽子を買ってデパート食堂でカレーライスを食べてクリームソーダ−を飲んだ。親父はとんかつ定食のようなものをナイフとフォークを使って気取って食べていた。ナイフの背中にご飯を載せて、とんかつはフォークで串刺しにして、味噌汁はズズーッとす吸っていた。キャベツはどうするかと見ていると、食べにくそうにナイフとフォークで挟んで口に持っていった。

 デパートを出て映画を見に行くために歌舞伎町に向かった。歌舞伎町のど真ん中の広場に面してミラノ座があって、日本では閉めての70mm映画が上演されていた。

 チャ−ルス・ヘイストンの十戒で、兵士に追われて逃げ場を失った群衆の先頭に立つモーゼが杖を振りかざして天を仰ぐと、海が真っ二つに割れて道ができた。群衆を追いかけて兵士が海に入ると、道が消えて兵士たちはおぼれた。そんなような映画だった。

 今では当然の大きさの画面が、きっと前のほうの席に座ったのだろうか、その時は左から右に頭を振りながら観ていた。

 親父とどこかに行った記憶は、会社の社員旅行で長瀞の渓流くだりをして簗で手づかみしたアユを食べたこともしっかり覚えているが、この制帽を買いに行ったときは、兄も弟もいない、親父とボク、二人だけなのがうれしかった。

 それから2年経って、弟が中学生になるために制帽を買いに行くことになった。この頃になると親父は残業や休日出勤で荷馬車のように働いていた。

 どういうわけかボクが弟の帽子買いに同行することになった。ボクは2年経ってもブカブカの帽子に閉口していたので、弟の帽子は一回りだけ大きめにした。
 
 確か道の真中を走る都電に乗って銀座に連れて行った。松坂屋デパートで帽子を買って食堂に入った。弟が何を食べたのか覚えていないが、ボクはとんかつライスを注文した。食べやすいようになのかとんかつが切れていてはしが添えてあった。

 ボクはウエートレスさんにナイフとフォークを注文して、親父の真似をしてとんかつライスをナイフとフォークで喰って見せた。弟はおかしそうに笑っていたが、ボクはちょっと大人になったような良い気分がした。
(それから20年後に原宿でとんかつ屋を経営するとは思ってもいなかった)

 デパートを出てから、金座の外れの封切り映画館であったテアトル東京に行った。

 カーク・ダグラスとジーン・シモンズのベンハ−が上映されていた。もちろん70mmシネマの超大作であった。それからしばらくの間は、ボクと弟は映画のローマ帝国時代の健闘士の真似をして遊んでいた。

 35年目の同窓会

 縁があってテレビに出演すると、必ず別の局でもお呼びがかかる。数時間も拘束されてせいぜい2,3分だけ画面に映るのだが、この影響はたいしたもので、いろんな人が見ている。

 同窓会の幹事をしていたT君も、テレビを見ていて、「頭は薄くなっているが、あれは高野に違いない」とテレビ局に連絡して連絡をしてくれた。あいつは悪党になって消息不明だけれど、今はどうしているのかと噂にはなっていたようだ。

 あれは18才の頃、水道橋のアイススケートリンクに行ったとき、同じような年頃の女の子から「叔父さん」と声をかけられたことがある。スケートを教えてやってお茶を飲んだら、本当に40才前後の中年だと思っていたのだ、

 考えてみると子供の頃の老け顔は、いつまでたっても変わらないようだ。それにしても、小さなテレビ画面で人相が分るとは、良くも悪くもボクの顔にも個性があるのだろう。

 そんなことから5年ごとに開かれる中学の同窓会に出席することになった。会場の御茶ノ水の中華料理店に行くと、T君は「良く来てくれた」と両手で握手を求め、他の幹事にも紹介してくれたが、みんな懐かしがって迎えてくれた。場内に入ると、もう150名ほどの旧友たちが集まっていた。

 最初に声をかけてきたのがG君で、当時は今流行りのアトピーのような吹き出物で、いつも頭に包帯を巻いていたから、みんなからいじめられ、家の近いこともあって、ボクが無いとの役割をしていた。あいかわらずデッカイ頭をしているが背広を着て、「あっ、あっ」何て言葉も出ないくらい再会を喜んでくれた。

 次には番長だったO君で「何だ生きていたのか、連絡もくれないで水臭いぞ」と、50歳にもなるのに肩をゆすっていた。いつまでたっても下町の不良だ。

 同じ高校に進学したTO君は、大きな家電メーカーにいるが、景気が悪くてとぼやく。そう言えば、あのころからブツブツ文句を言うのが癖だった。

 そして、一際目立つ美人が笑顔で近づいてきた、なんだなんだ、この胸のときめきは・・・「ごぶさたね、覚えている」と声をかけられ「ああ、覚えているさ」と答えたものの、不思議なことに苗字が思え出せなくて、名前を呼ぶのも失礼だ何て思って、ドギマギしてしまって、話の材料も見つからないので、さっさと別の場所に移動してしまった。

 彼女は隣町のガードの向こうに住んでいたGHさんで、マドンナ的な存在だったが、あのころよりももっと色気があって美人になっていた。数日後に友人宅で再会したら「私のこと覚えてなかったでしょう」と、またまた色っぽい目つきでにらまれてしまった。
 (実際のところ、ボクは彼女が大好きだった・・・)

 同窓会名簿を見ると、中学時代に大好きだった中国系のDさんの死亡が告げられていた。20代の半ばで亡くなっていた。色黒で丸っこい鼻で、目がパッチリして、いつもニコニコしていたし、あんまり話はしなかったけれど、何かにつけて親切にしてくれた。合掌。

 いずれにしても、都会のど真ん中の中学だったのに、うらやむほど出世した男はいなかった。女性陣だけが、美人繚乱、ため息の出るような美人が多かった