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思い出のなる木4

説教強盗

参考文献・朝日新聞、サンカ説教強盗(批評社、小石礫川全次著)
 説教強盗さんのお話

 今日、説教強盗と聞いて分る人は関東方面に多く、それも年配の方か犯罪学を学ぶ人でしょう。

 その強盗をさん付けで呼ぶとは、何か猫ひげはうんさくさい奴だと早とちりされても困るのですが、ボクが17歳のころ、アルバイトをしていた四谷のお握り屋さんで、説教強盗の妻木松吉さんと知り合ったのです。知り合った当時は60歳を越えて、既に好々爺の風情で、いつも金歯を見せて豪快に笑っていました。

 幼稚園の園長さんをしていて、ときどき、週刊誌や新聞、テレビなどに取り上げられると、「犯罪防止学の専門家」としての肩書きが付けられていたのですから、当を得ていたのです。

 説教さんとボクはそれほど深い因縁があったのではないが、ボクが17歳のころ、ふとしたキッカケで説教強盗の妻木松吉さんと知り合うことになった。妻木さんは1901年生まれ(明治34年生)で覚えやすいと言っていたから、ちょうど60歳であった。
 
  ボクは工業学校もろくすっぽ行かずに、ボクシングに夢中になったり、寛永寺の美術研究所に通っていた。油絵よりも、山下清ばりの貼り絵が得意で、ヒマがあったらちぎった紙をペタペタと貼り付けていた。小遣い銭稼ぎに、一杯飲み屋のお握り屋でアルバイトをしていた。

 そんなある日、開店前のおにぎり屋に妻木さんがブラリと顔を出したとき、ボクは誰かに頼まれた貼り絵を制作中で、その貼り絵を見たつ妻木さんは「これは素晴らしい。わしの幼稚園で出している本の表紙をお願いしたい」と言われて、快く引き受けた。

 それが縁になって、妻木さんはボクをずいぶんと可愛がってくれた。何かを貰った覚えも無いが、遊びに行けば、必ず、いろんな話を面白おかしく聞かせてくれた。

 そのいくつかを紹介するが、妻木さんについて書かれた本も何冊か読んだし、記憶とか思い込みも重なり合って、この話にはノンフィクションとフィクションが入り混じっていることをお断りしておく。(幼稚園の園長さんであったことも、これは確かに本人から聞いたのだが、どこの園長さんだったのか、それが本当だったのかは調べたことも無い)

 説教さんとチンピラヤクザ

 ボクは最初から説教さんを意識していたのではないが、四谷のおにぎり屋でアルバイトをしているとき、ある日の夜更け、お店にやってきた酔っ払ったチンピラが、うだを上げて、他の客に嫌がられていた。そのとき、ガラッと戸を開けて入ってきたのが説教さんでした。

 ちらっとチンピラを見て、それを無視したように、いつものダジャレを言っていたのがチンピラの機嫌を損ねて、あろうことかチンピラが説教さんに因縁をつけ始めました。

 説教さんも最初は、「わかった、分った」といなしていましたが、そのしつこさに腹を立てると、すくっと立ち上がり「おいチンピラ、どこの組のもんかは知らないが、わしを誰だと思ってやがるんだ」とたんかを切って、眼力鋭くチンピラを見据えました。

 妻木さんはボクより小柄だったので、せいぜい身長は160cmくらいで、中肉中背といったところだが、このときばかりはそれが鋼の塊のように思えた。

 二三言やり取りしていると、迫力負けというか、次第にチンピラの威勢が悪くなり、説教さんはチンピラを諭すように「今日はおとなしく帰って、お前の親分に説教の妻木だと伝えろ、わしは逃げ隠れしないから、文句があったらいつでも出直して来い」と迫力のある台詞回しでチンピラを追い払ったのです。

 そんなことがあって、ボクはめったやたらに説教さんを畏敬の念をもって一挙一動に感心をもつようになったのです。

 このチンピラ騒動の後で、説教さんは「いくらヤクザの親分でも居場所が知れているいるから、何かあれば隙をうかがえば良い。でも、わしの仲間はどこにいて何をしているのか知られていないから、相手がどこの誰でも怖くない。千枚通しの一本ありゃ、人っ子一人どうにでも始末できる」と平然としていました。

 数日後、気にかかっていたので「泥棒さんにも組織があるのか・・・」と臆面もなく訊ねた。

 機嫌が良かったのか気持ちが大きかったのか「そうじゃない。昔は喰うや喰わずで仕方なく悪行もしたが、わしらの家業は泥棒じゃない。流れの渡世も昔のことで、今じゃみんな一角の仕事について、何かあれば互いに助け合っている」と、いつものようにアッハッハと笑って答えてくれた。

 何だか町の議員さんなっている人や結構な会社の重役さんもいるらしい。

 説教さんも前科があるのに幼稚園の園長さんなのだから、なるほどそんな秘密の組織があるのかと妙な納得をしたのです。
 
説教強盗のあらまし

 この犯罪は大正年代が昭和に変わった年に起こった。
 「説教強盗」の名称が朝日新聞によってつけられたように、マスコミに大きく取り上げられ世間を騒がせたのです。

 噂が噂を広げて、極悪非道の大悪党のようにも喧伝されたことから、子供たちまで「説教強盗が来るよ」と言えば悪さを止めたと伝えられます。さらに、あまりにも鮮やかな手口に、その犯行を真似て説教強盗を名乗る、説教2号、説教3号なんかも現れたのですが、偽説教たちはみんな本家より早く逮捕されたのです。
 
 4年の後、昭和4年の新年になってから犯行が止んだ頃、朝日新聞社では説教強盗を逮捕した者に1000円(今の貨幣価値では1000万円程度でしょうか)逮捕に結びつく有力な情報には300円の懸賞金を提供しました。、(結局は逮捕した警察がいただいたのです)

 同時に、平凡社は犯人が自首した場合は、犯人の家族に1000円の懸賞金を与えると自首をすすめる広報していたのですが、妻木さん本人はそれを知らなかったそうです。

 「わしは先が見通せるからお縄になる覚悟もできていた。あれだけ世間を騒がせたのだから捕まったときはみっともない真似だけはしたくなかった。察の旦那たちも親切だったな・・・懸賞金をくれるって知っていれば自首してたよな・・・」と回顧していた。
 
 妻木さんの両親は甲府の職工で、出生は、母親が妊娠中に盗品故買の罪で服役したときに甲府刑務所の中で生まれました。

 母親は出所後に野守(のもり)の近藤と再婚したので近藤姓を名乗っていた。野守とは万葉の時代から続く野山の番人で時には自らも猟をして生計を立てていたので、このために妻木さんは小さなころは野山を駆け巡っていました。このときに鍛えた体力があって、犯行後に道無き道を10km以上も早足で逃走するのに役立ったのです。

 どうやら、この逃走の方法に秘伝があったようで、近くの駅には直行しないで、まるで反対の方向の離れた駅まで徒歩で逃げて、それから電車を乗り換えたりしながら、何時間も遠回りして家にたどり着いたのです。

 記録によると、最初の犯行は1926年(大正15年、この年の12月25日は昭和元年)の7月で、最後の65回目の犯行は1928年(昭和3年)の12月、ほぼ4年間であり、犯行に及んだのは午前1時から午前4時までの深夜であった。

 犯行場所は東京の新宿、中野方面であり、地の利があったのでしょう。

 当時の社会情勢は、関東大震災が1923年(大正12年)9月3日で、震災の被害をもろに受けた東京下町の人々が市街地に移住したこともあって、犯行場所の地域の人口が急増したのである。この事件後の昭和7年に東京の市街地は現在の各区に統合されて、東京都が拡大されたのです。
 
 事件のあらましは、
邸宅を狙って深夜に偲び込んだ強盗が、まず最初に電気の線を切って暗闇にして、用意した懐中電灯を照らしながら「わしは説教だ」と名乗り、続けて「もっと金があるはずだ、金庫を開けろ」と金品をせしめると、夜が明け始めるまでの時間つぶしにその場に留まって、震えている家人に対して、やおらタバコを一服ふかして「戸締りが悪い」「庭があるのだから番犬を飼え」「寝るときには電気を消せば泥棒が入りにくい」などと、防犯の不備を説教して、時には、婦女子の寝乱れた姿に強姦に及び、口封じをしたのです。何をすれば気持ちが落ち着いたし、良家の子女ほど黙っていてくれたと、嘯く、まことに不届き千番な強盗だったのです。

 (もっとも、裁判では婦女暴行や強姦罪で訴えた人はいなかったようです)

 これと目星を付けた家は、朝昼晩と何日もかけて下見して、まず最初に逃走経路を重要に調べ上げ、前もって懐中電灯やペンチなどの七つ道具を近所に隠しておき、番犬などがいてもも肉切れで手なずけたそうです。

 塀を登るのも庭木に姿を隠すのも朝飯前で、身の軽さを聞いていると、まるで忍者のごときの身のこなしであったそうな。

 犯行に及ぶ当日は、夕刻を過ぎると庭先に忍び込み身を隠していた。家人が寝静まるのを待って、まずは電話線と電気線を切断して家屋に侵入すると、用意した渦中電灯を照らして「俺は説教強盗だ」と名乗るのです。

 事件の報道が次第にエスカレートしていたので、「説教だ・・・」と名乗るだけで、家人は震えおののき、用意してあった金銭を差し出すのですが、「これは用意周到な、ならば、もっとあるだろう。隠しても無駄だから、もっと出せ」とすごむと、大抵は言いなりになったのです。

 もっとも、説教さんの話では、「時々は不相応なおあし(お金)をせしめることがあるが、そんなときはわしは一人では使わなかった。家族の食い扶持を残すと、みんな仲間にくれたもんだ」と言う。

 誰が仲間でどこにいるのかは教えてくれなかったが、ボクは説教さんは義賊なんだと思っていたが、今では「忍者窃盗団」のような組織があって、説教さんは一匹狼のような存在だったのだと思っていました。
 
 逮捕されたのは昭和4年2月23日、群がるカメラマンのフラッシュにもたじろぐ様子も見せず、堂々とした写真が残されています。取り調べも、聞かれたことに答えるのだから事件になったのは被害届がでていただけで、半分くらいはばれていなかったそうです。

 いずれにしても、殺人以外では最高刑の無期懲役を言い渡され、18年間に及ぶ服役の後、秋田刑務所を出所したのは昭和22年でした。

 出所後は話の上手なことから浅草のロック座などに幅広く出演して、面白おかしい話を聞かせて人気をえていたそうで、大看板に「特別ゲスト説教強盗」などと張り出されると大入り満員だったそうで、おまけに社会事業協会などにも呼ばれて、「強盗に入られない防犯対策」なども講演したそうです。


 それから十数年後、1960年頃、四谷三丁目の路地裏に小さな二階家に住んで、説教さんは、幼稚園の園長をしていると言っていました。

 1989年1月29日、西八王子病院で死亡。享年87歳、死後しばらくしてから朝日新聞と毎日新聞に「説教強盗・妻木松吉・孤独の死」と報じられたのですから、その悪名を昭和史の一ページに残したのです。
 

 粋な身なり

 妻木さんは冬場になると、カシミアのコートに濃いこげ茶のフェルト製の紳士帽をちょいとはすかいに粋にかぶっていた。マフラーは薄茶のカシミアだった。

 まずはコートを脱いでマフラーを外し、帽子を取るとテカテカのハゲ頭であった。もしかするとそり上げていたのかも知れないが、髪の毛らしきものは見たことが無かった。

 チェックの上着を着ていたときなぞは、本当に粋な人だと感心した。何を話しても面白く、いつも、アハハと笑って、金歯がやけに光っていた。

 思い出してみると、当時のハイカラなヤクザは大抵がシカゴギャングのアルカポネを真似てトレンチコートに紳士帽をかぶっていたが、妻木さんほど粋に紳士帽をかぶっている人はいなかった。

 ある日、真っ赤なベレーに真っ赤なちゃんちゃんこを着て、ニコニコしながら妻木さんが入ってってきた。ママさんは「還暦のお祝いだね、おめでとうさん」と言うから、何の事やらわからぬままに、ボクも「おめでとうございます」とペコリ頭を下げた。

 大きめのぐい飲みで一杯キューっと一気に飲み干して、「いやいや、世の中も住みやすくなったもんだ」などと機嫌よく話しはじめたら、ガラリと戸が開いて「お客さんがお待ちですよ」と若い女性が迎えに来た。

 時々妻木さんと一緒に歩いているところを見かけたことがあるが、小柄で細面の物静かな女性で、年のころは30過ぎ、あれは娘さんだったのだろうか、もしかすると愛人のようでもあり、それを聞いたことは無かった。

 この女性が来ると、妻木さんは子供のようになって「はい、はい」と素直に言うことを聞いていた。「女子供は泣かしちゃいけない。女子供を泣かせる奴は下衆の根性無しってもんだ」と言うのが口癖だった。
 
おにぎり屋さん

 説教さんはアルバイト先のおにぎり屋さんの常連だった。店を開けるころに真っ先に入ってきて、帰宅前の一杯を飲んで、何ぞ面白い話を聞かせてくれて、みんなが笑うとご機嫌で帰って行った。
 
 おにぎり屋さんのあった場所は、今はどうなっているのだろう。
 四谷三丁目の信号を曙橋の方向に左側を行くと、まず目に付くのが消防署、つぎに大きなスーパーマーケットがあるが、ここは40年も前は、ライオン座と言う下町の映画館であった。この映画館が不況になると、流れのストリップ小屋になっていた。

 その先にメーンの通りから分かれる細い露地があって、その露地の入口に光村と言うおにぎり屋があった。6,7人が腰掛けられるカウンターと三畳の間ていどのお座敷があった。ここの経営者のママさんは、四十盛りで、太っていたが、見れば見るほど可愛らしくプックリと太っていた。パトロンがいて、それが何と社会党の国会議員さん、労働組合の出身で参議院議員を二期務めて、三期目に落選した。

 議員さんはなかなか話の分かる人で、いつかは、社会見学だと言って、若い連中を連れて六本木のハンバーガーレストランに繰り出したこともある。ボクたちも「先生」と呼んでいたが、このレストランに行ったときは襟の金バッチを見て支配人が挨拶に現れて、頼みもしない果物やチーズなんかが出された。

 なぜ、おにぎり屋さんでアルバイトをしていたのかは覚えていない。きちんとアルバイト料を貰った記憶も無いが、深夜になると銀座帰りお姉さんが客を引っ張ってきて、チップだと言って結構小遣いをくれた覚えがある。

 ボクは高校に入るとすぐに、若葉町の家から走って、曙橋にあったボクシングジムに通っていた。ボクシングをするなら喰っちゃいけないと言われていたが、いつも腹を減らして食い気を我慢できなかった。

 15歳からボクシングを始めていたから、丸2年もすると、ちょっとやそっとの喧嘩では負けることが無かったし、町の不良にも名前が知られるようになっていた。滅多に喧嘩をしたのではないが、実際に町の不良グループと喧嘩になったときも、みぞおちに左ストレートを叩き込んだら一発でけりがついた。

 17歳になった若いころとは言え、ずいぶんとハチャメチャな生活をしていた。家も近かったが滅多に帰ることも無かったし、大人びた夜のアルバイトも気に入っていた。

 ここから先の人生の流転はもう少し黙っていよう。

 
 番犬

 当時、番犬で役に立つのは秋田犬か土佐犬、紀州犬などであったが、説教さんは、二十歳のころに物の弾みで土佐犬が飛び掛ってきたので、あの恐ろしげな土佐犬を手にした短い棒切れ一本で撃退したそうです。

 説教さん曰く「どんなに獰猛な犬でも弱みがあるが、目を逸らせると必ずやられてしまう。まずは睨みつけて睨み負けないことが肝心だ。犬がウーウーと唸るうちに、何でも良いから棒切れなどを掴んで、それをもち手とは反対の肩の上に振りかざす」と。やおら立ち上がって身振りを交える。

 「犬が負けないで飛び掛ってきたら、前足めがけて棒切れを叩きつける。顔や頭を狙っても硬くてダメだ。犬の弱点は前足だから、そこをピシッと叩けば、どんな犬でもキャンキャン鳴いて逃げ出す」と自信タップリであった。

 もっとも盗みに入るときは、どんなに小さな犬でも鳴かれると困るので、2,3日もかけて鶏肉を与えて、顔を見ても尻尾を振るようになつかせたのだそうだ。

 もっとも、説教さんの話では、自分は犬の扱いに慣れていたが、並みの盗人は犬がいるだけで近寄らないのだそうだ。

 実際に猛犬の土佐犬と戦ったのだから、誠に説得力のある話しだったのだが、ボクはいまだに大型の日本犬が近寄ると「もしかして、猫の匂いがついていないか・・・」などと、、ちょっとばかり震えています。
閉ざされた檻の中

 説教さん曰く、
  「悪事を働く奴は、捕まったときは年貢の納め時ってもんだ。察の旦那のお手を煩わせないように、やっちまったことは有体に話さなくちゃいけない。

  でもな、出来心で悪いことをした奴ほど情けない言い訳をするもんだ。しょんべん刑で捕まる奴は、助かりたくてメソメソ泣いて見せたり、ちょっと声を荒げて机でも叩かれようものなら、イスから一尺も飛び上がって「ごっ、ごめんなさい」って、オタオタと震えてやがる。肝っ玉なんぞはウナギのほうが大きいってもんだ。

  こんな奴ほど、シャバに出たら嘘八百並べて威張ってみせる。世間のお人は何も知らない檻の中のことだと高をくくっているけど、根性が小せいのよ。 

  この輩(やから)は御託ばかり並べて反省が無いからまた同じことを繰り返すんだ。親のしつけがなっちゃいない・・ウソは泥棒の始まりだい」

 この大泥棒さんは自分を何だと思っていたのか今だに不明だ。


 警察の取調べは、すぐに犯罪者の性格を見抜いて、なだめたりすかしたりしながら調書をまとめます。

 こそ泥の類は腹ぺらしが多く、キツネうどんでも食わせれば、一杯食っては悪事の1つを白状します。ちょっと眉唾物ですが、天丼にすると感激にして悪事を2つ白状すると言うのです。

 女関係のいざこざを起こしたやからは、大抵が腰抜けで、同情する振りして、タバコの一本もすすめると「はいはい・・・」と、聞かぬことまで女のことを喋り捲るそうです。

 警察の留置所のランクは、酔っ払いは一晩騒ぐだけで相手にされず、次に女を傷つける奴、置き引きとか万引き、ポン引き、こそ泥、強姦、寸借の詐欺なんてのが同房者からからかわれたりするのです。大抵が簡易裁判所送りで、罰金刑か、処分保留、常習者は短期の刑です。

 毎日、屋上の運動場でタバコを2本、「極楽、極楽」と頭をしびれさせています。お風呂は冬場は週に2回、夏場は週に3回、頭と体を洗って流せば、ザンブと湯に浸かって、せいぜい2、3分、風呂場に入って出るまで10分もかかりません。中には粋がって水を浴びる奴もいるそうですが、隅っこでやれと追い払われるだけです。

 警察で出されるもっそめしは米とむぎが7対3で、イカの塩辛が上手いのです。手錠をかけられ検察庁送りになると、取調べを待つ間は、長椅子に腰をかけ、知り合いなんかには目で合図を送り、昼になったら、マーガリンをぬったコッペパンと水が配られ、胃の中に流し込みます。

 検察局に送られて拘留延期で取り調べられると裁判されると、最初に拘置所に送られ、慶賀確定すると刑務所送りになります。

 刑務所は世間から閉ざされた別天地で、何と言ってもヤクザの親分は格上で、修行中のチンピラとて何とか顔を売ろうと威張っています。

いくら娑婆で生意気言っているはねっ返りでも、この中に入れば、しゅんとしょげ返り、グチグチと言い訳するばかりで、黙っているときはため息ばかりついています。

 詐欺師は「外に出たら隠した金がある」とホラを吹いて、いじめから逃れようとするか、「これなら成功する」と新しい手口を考えているのです。

 左翼系の政治犯は普段は五月蝿がられているのですが、何かの法律知識を必要とするときは「先生」とよばれるそうです。

 強盗で強姦の説教さんは、新聞にも度々掲載された大物なので別格扱いだったそうです。
 サギ師の黒のこと

 説教さんの話は本当なのかウソなのか分らないところもあるが面白かった。その中でも、黒の話はバカバカしくて面白くて、今でも記憶に残っている。

 黒と言うのはは苗字である。刑務所の雑居房で、雑居房と言うのは1つの房内で何人もの懲役囚が一緒に寝起きするのだが、いつも「クロ、クロ」と下役をさせられている囚人のことである。

 黒は説教さんの名付けたところでは、チョン詐欺の常習者で、警察につかまると、いつでも「白井」と名乗ったそうだ。やるこは決まっていて、やることは、とんかつ詐欺なのであるが、チョン詐欺だのとんかつ詐欺だと言っても世間の人には分りにくいから、事件のあらましを教えよう。

 黒は東京近在のデパート食堂専門の詐欺師で、昼時の混雑を過ぎたころを見計らって食堂に入る。メニューを見て、カレーにしようか、とんかつにしようかと迷ってみせる。黒に言わせると迷うかのも演出のうちなのである。そして、重大な決心をしたように「うん、とんかつ定食がいい」と注文する。
 
 四分の三ほど食べたところで、演技が始まる。
 やおら口を押さえて「雑巾、雑巾」と、素っ頓狂な大声を上げて、ウエイトレスさんに雑巾を注文する。何ごとかと雑巾を持ってきたら、テーブルの水を口に含み、雑巾に吐き出す。
すると、雑巾は血にまみれて真っ赤になる。それを見たウエイトレスは仰天して、大抵が支配人などを呼びに走る。

 回りの客も何ごとがあったのかとざわめくが、黒の演技は続けられる。支配人が飛んでくると、言葉も話せないような身振りで大げさに口を押さえて軽くうめきながら、さらに雑巾に血を出してみせる。

 この血は大した量ではなくても、コップの水で真っ赤になって水増しされるから、全ては計算の上なのである。

 黒は従業員の控え室に案内されて、深々と頭を下げられ、事情を聞かれると、首を振り振り「いやぁ、参ったなあ、とんかつとキャベツと、飯も食って、その上、味噌汁も同時に飲んだ。するとガリッと音がして、石をかんだと思ったら、こんなガラスが入っていた」と、ガラスの欠片をいまいましそうに雑巾から取り出してみせる。

 なぜ、とんかつかと言うと、第一に好きだからで、など次の理由は、使っている材料が豚肉、メリケン粉、パン粉、それにキャベツ、味噌汁のワカメ、お米などで、どこでガラスの欠片が紛れ込んだのか分らないから都合が良いらしい。

 なぜ、半分以上食べ手からなのかと言うと、時間がかかっても良いように腹ごしらえするのだそうだ。
  
 大抵のデパートは5000円か1万円を包んで、気が利けば手ぬぐいのセットなんかも差し出して、平謝りだったそうだ。当時の1万円なら当時の職工さんの1月分の給料ほどである。

 それまでにも池袋の東部デパートでは、運悪く非番の刑事さんが家族連れで食事をしていて、その一部始終を見守っていた。

 ちょっと不審に思って事務所までついてきて、警察手帳を見せられたら「なんだ、なんだ、俺は被害者なのになんで警察が出てくるんだ」と、動揺して大騒ぎしてしまったら、結局は警察署に引っ張られて御用になったそうだ。

 黒は「どうも大衆の行くデパートはダメなんだ」と、大ぼやきだったそうだ。

 次に捕まったのは銀座の三越で、新宿の三越で大枚の1万円をせしめたから、それでは銀座店でもと考えたら、デパート同士のお知らせが回っていて、全く同じケースなのに、支配人が大げさに謝るのを気分よく聞いていたら、その間に警察に通報されて御用になったそうだ。

 さて、警察に捕まると、最初に名前を聞かれる。前科があって、指紋照合されると、何日か後には本名がばれるのだが、黒は必ず「白井」と名乗った。

 同房のみんなは「なぜ、ウソの名前を言うのだ」とわざとらしく聞くのだ。すると「最初から黒だと名乗ってみろ、いくらやっていないと言っても、お前は黒だ、黒だと馬鹿にされて、言い訳もできない」と情けない言い訳をした。

 黒はよほど「白」の名前にあこがれていたらしく、いつもぼやくのは「黒って苗字の奴には悪人はいないんだ」と、警察に捕まるのも苗字が悪いからで、自分のことを善人だと決めていた。